毒親を持った子供の愚痴
今更ながら自分の親が毒親だった事に勘付き始めてしまった。 一度気付いてしまうと日々ストレスが溜まる一方なので ガス抜きにブログでちびちび愚痴ろうと思いブログ始めました。 子供を育てている方は反面教師になるかもです。
どうでもいい。


私は何かの意見を訊ねられた時、「どうでもいい」とか「どちらでもいい」と答えてしまうところがある。

それは幼少期より毒親による理不尽な選択を迫られ続けたことが原因である。

私の親は私に意見を求める(選択を迫る)時、親の望む選択をするよう強要してくる。

親の望む選択をしなかった場合、必ず私の選択を否定してくる。

時に直接的にあからさまに嫌そうな顔で「それだと困る」等の文句を言い(だったら聞くなよ)、時に間接的にあからさまに嫌そうな顔で私の選択を採用しつつ、その後事ある毎にその選択に対する不平不満をねちっこく言い続ける(だったら聞くなよ)。

加えて私の選択を採用した時なんかは散々小言を聞かされた挙句、「採用してやった」感を全面に出し恩を着せてくることさえざらである。(遠回しに次は親の意向に従えと言わんばかりに)

毒親のせいで私にとって意見を求められるという事は、「同意を強要される」事でしかない。

親の望む答えを察してそれに同意する行為なのだ。

そして、にも関わらず私の親は質が悪い事に、その「親の望む答え」というやつが常に定まっているわけではないという問題がある。

度々綴っているが、私の親はその場の都合、更には気分の変化でころころと意見を変える自己都合主義者、平気で矛盾を子供に突きつけられる人間である。

同じ質問でも、常に答えが一緒とは限らない。

つまり答えなど無いに等しく、「親の望む答え」を察する事は事実上不可能に近いのだ。(殆ど運任せ)

更にである。

仮に「親の望む答え」を言い当てられたとして、待っているのは「やっぱり普通はそうだよね」と親の自己顕示欲を満たす道具に使われるだけ。

私的にはどの道 自己否定を思い知る事であり、心が殺されるだけで得るものは何もないのだ。

こうした環境に長年晒され私が辿り着いた結論が質問に答えないという答えであり、初めに述べた「どうでもいい」とか「どちらでもいい」なのである。

それが世間では「よろしくない答え」なのは社会に出て思い知らされた。

それでも私はついつい、そう答えてしまう。

子供の頃に刷り込まれてしまった習性は辞められないのだ。

毒親の毒とは本当に厄介なものである。


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気になる傷あとやタトゥーを隠す!肌かくしーと!!  
お盆。


私は「お盆」というのが嫌いである。

先祖の霊を供養する行事を嫌うとは罰当たりな、と思われるかもしれない。

しかしながら私の親は毒親で、下記のようなことが毎年繰り返されるのだから仕方がない。


  • 信仰深い親にとってこの手のメジャーイベントは何をおいても優先されるべき行事(私の都合はすべて却下される)

  • 何かと理由を付けてやりたくない事から逃げる親にとってこの手のメジャーイベントは格好の言い訳材料(「休みはお盆に使うから夏休みの旅行とかは無理だ」などと私との時間を避ける言い訳に使う)

  • 私の事を「跡取り人形」として扱っている親にとって、この手のイベントは「人形」に仕込まなければいけない事(「お前は長男で跡取りだから」と義務として私に押し付けてくる)


私にとってこの「お盆」というものは、自己を否定され、親の愛を拒否され、そして強いられる行事でしかないのだ。

そんなものを好きになれるわけがない。

はっきり言って、毒親のせいで私にとって神や仏(少なくとも私の親が言うところの)というのは自身を苦しめるもの、それこそ鬼や悪魔でしかなかったりするくらいだ。

先祖を尊ぶ事は大事だと思うし、ご先祖様には申し訳ない気持ちだ。

それでも、毒親のせいで鬼や悪魔に成り下がったものを尊ぶ気にはとてもじゃないがなれない。

私は「お盆」が嫌いである。


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息苦しさ。


親といると息苦しい。

無関心な父親。

自分の知らない事、自分の思う事、自分の都合、それらに反する事をいっさい認めようとしない母親。

私に何も与えず、私の何も認めず、私を否定し侮蔑する。

それでいてふたりとも揃って「放って於いても、お前は大丈夫」と私の現状に高を括っている。

私の自己を否定しておいて、私の自己を肯定する事で親の責任からは逃れようとする。

その矛盾がどれ程私を苦しめていることか。

私の両親は知る由もない。

だからこそ、私の胸はこの両親の自覚のない悪意で今日もまた締め付けられているのである。


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鈴木亜美オススメの「するっ茶」  
「あ、どうも」


「あ、どうも」

父親が私に声をかける際に使う言葉。

殆ど私と会話を交わそうとしない父親が私と交わす言葉の実に9割程がこの「あ、どうも」である。

そして大抵この「あ、どうも」で父親との会話は終わる。

私はこの父親の「あ、どうも」が嫌いである。

私と父親の関係性を如実に表しているのがこの「あ、どうも」だからだ。

実に子供に対しこんな他人じみた言葉を馬鹿の一つ覚えのように毎回繰り返し、それで私との会話を済ます父親。

父親との関係が希薄であり、それを父親がどうとも思っていない、寧ろ父親が進んでそうしている、というのをまざまざと実感させられ、思い知らされる。

私はこの「あ、どうも」を父親から聞かされる度に、父親の異常性を知らしめられ、そしてその事に何故もっと早く気付けなかったのかと後悔の念を懐いてしまう。

実にストレスである。

そんな私の気持ちなど知る由もない父親は今日も「あ、どうも」を口にする。

私はまたストレスを抱え込むのだった。


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母親との会話はストレスである。


私にとって、母親との会話はストレスである。

なぜなら私と母親との会話は常に「母親が私を否定する」ことで成り立っているからだ。

母親が私に声をかける時は、決まって「〇〇した方が良いよ」「〇〇しなきゃダメよ」「〇〇やめなさい」「〇〇やりなさい」と、私の不備を指摘することから始まる。

それが母親の素の会話のスタイルである。

そして、素なので厄介な事に、母親に自覚はない。

しかもこれの腹の立つところは、半分くらいは母親の妄想に起因しているところである。

母親は思い込みが激しい。

だから思い込みで私を避難することが多いのである。

例えば真夏の真っ昼間。
私がちょっと近所のコンビニまで出かけるとする。
私は防犯の為、部屋の窓を閉め切って行くとする。
私が出かけたあと、窓の締め切られた私の部屋を庭から見かけたらしい母親は呆れた顔で私に言うのだ。
「(熱中症で危ないから)窓開けときなさい」と。

まず私は普段、部屋にいる時は窓を開けている。(なお、部屋にエアコンはない)

そしてその時、私は部屋に居なかった。

窓を閉めたのは防犯のため。

にもかかわらず私は避難されたのだ。

このように状況を把握しないまま一方的に私を否定、非難する。

それが私の母親なのだ。(尚、本人に自覚はない)

恐らく毒親というものを理解できていない人はそんな些細な事をいちいち気にするなよ、と思うかもしれないが、これはそんな生易しいものではない。

なぜならこれはほんの一例に過ぎず、私はこの手の否定や非難を母親と言葉を交わす度に浴びせられているのだ。

幼い頃よりずっと。

常に自分を否定、非難、叱責される行為。

しかも思い込みによる身に覚えがない理由でのそれ。

それが私にとっての母親との会話なのだ。

ストレス以外の何物でもないではないか。


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